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高知県に関係する歴史上の人物

空海(弘法大師)

774〜835:香川県出身。真言宗の開祖。804年に唐に渡り長安の青竜寺で真言密教を学ぶ。 高野山に金剛峯寺を建立。19歳の時、修行のため四国各地をまわり室戸に訪れたと言われる。 四国八十八ヵ所の寺を開基再興し四国霊場とした。

紀貴之

845〜945:930年に土佐の国司に任命され4年間土佐守となる。 土佐日記(書き出し)ー「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみんとてすなり」。

長宗我部元親

1538〜1599/9/12:土佐の出来人。長宗我部氏第21代当主。 第20代当主・長宗我部国親の嫡男であり、母は美濃斎藤氏の娘・祥鳳。 22歳の時に初陣を飾り、鬼若子といわれるまでの働きを見せる。 天正2年36歳で土佐を統一し、47歳には四国を平定。 しかしその後、豊臣秀吉との戦いに敗れ、秀吉に従って戦国乱世を生きた。 元親が没した翌年、関ヶ原の戦いで豊臣軍が敗れるとともに長宗我部氏による土佐統治の時代も終った。 「一領具足」が有名。
一領具足とは:平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、 領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、 直ちに召集に応じる心意気。

山内一豊

1545〜1605/11/1:尾張国で父・盛豊、母・法秀尼の間に生まれる。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らに仕える。 1573年の朝倉攻めの際には、矢が顔を貫く重傷を負いながらも奮闘した。 豊臣秀吉から掛川城を与えられ、後に徳川家康に献上した。 慶長6年(1601年)に浦戸城に入城する。 その際、地元の人間を大量に雇用しようとしたが、あまり集まらなかった。 旧長宗我部家臣の多くは新領主に反発し、国内で多くの紛争を繰り返した。 この遺恨により以前からの山内家家臣を上士(じょうし)、旧長宗我部家の家臣を郷士(ごうし)とした差別的扱いが作られ、 坂本龍馬など郷士は、この制度に幕末まで苦しめ続けられた。 大高坂山に高知城を建設したわずか2年後に死去した。 妻・千代と名馬の逸話はあまりにも有名である。

長宗我部盛親

1575〜1615/6/11:長宗我部家最後の大名。 長宗我部元親の四男。 長兄の死後家督相続を巡ってあらそうが、父・元親の強硬な後押しがあり、天正16年(1588年)に世子に指名された。 慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では、当初盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えたが、 近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に与した。 西軍敗北後捕らえられ、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。 そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首された。 身長は6尺(180cm)あったとされ、父や長兄同様に当時としては大男であったと言われる。

吉田東洋(元吉)

1816〜1862/5/6:高知市帯屋町出身。武士であり政治家でもあった。土佐藩大目付。公武合体運動の中心的な役割を果たした。 1837年に口論から家僕(雑用係)を殺害し、篭居する。 1841年に家督を相続した後、藩主山内豊熙の進める藩政改革に取り組み、飢饉に備えて藩営の済営倉の設立を進言する。 その後、藩主山内豊信に起用され、富国強兵論などを主張した藩政改革を行うが、保守派の反対にあい免職。 人事や法令改正、海防などの意見書をまとめ、「時事五箇条」として上程している。 1862年武市半平太率いる土佐勤王党の志士(那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助)に暗殺される。 甥に後藤象二郎がいる。

山内容堂(豊信)

1827/11/27〜1872/6/21:12代土佐藩主・豊資の弟豊著と側室・平石氏の間に生まれた。生家は1500石取りの分家で本来土佐藩主の地位とは程遠かった。 13代豊照と14代豊惇が相次いで急死し、急遽22歳で土佐藩主に就任することになった。 福井、宇和島、薩摩の各藩主と共に、幕末の四賢侯と称された。 晩年は「鯨海酔候」の悠々自適な生活を送った。 容堂は隠居してからの名前で、元は豊信と名乗っていた。

ジョン万次郎(中浜 万次郎)

1827/1/1〜1898:高知県土佐清水市中浜の貧しい漁師の次男に生まれる。 1841年14歳の時に漁師の手伝いで漁に出たあと遭難し、5日半漂流後奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着して143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救われる。日本はその頃鎖国であったため、救われた大人達は寄港先のハワイで降ろされるが、アメリカのホイットフィールド船長に気に入られ本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。 船名にちなみジョン・マン (John Mung) の愛称をアメリカ人からつけられた。 1851年に帰国。 1853年幕府に召聘され直参の旗本となった。この際、生れ故郷の地名を取って「中浜」の姓が授けられた。 アメリカの歴史に最初に名を残した日本人。 坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われている。 英語、数学、測量、航海術、造船技術などを日本に伝える。 蘭学者・河田小龍により「漂流記」が、まとめられた。

武市半平太(瑞山)

1829/10/24〜1865/7/3:高知県高知市仁井田生まれの郷士。土佐勤王党。勉学、武芸ともに優秀。 1849年城下の新町で剣術道場を開き、門下には中岡慎太郎・岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となる。 1856年江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。江戸では桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流する。 1862年には藩主山内豊範への進言を退けた、土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令。 京では数々の佐幕派暗殺に関与し天誅・斬奸と称して刺客を放ち、政敵を暗殺させた。武市の下で動いた人物では、岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛等が有名。 捕縛された岡田以蔵を毒死で暗殺しようとしたが失敗。 山内容堂の勤王党弾圧により「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹。 坂本龍馬とは遠縁にあたる。

岩崎弥太郎

1834/12/11〜1885/2/7:安芸市出身。三菱財閥の創始者。吉田東洋の門下生。

坂本龍馬

1835/11/15〜1867/11/15:高知市上町出身。土佐勤王党。近代日本の夜明けを築いた人物としてや、 海援隊を率いた人物としてもあまりにも有名。 日本人最初の新婚旅者。才谷梅太郎などの変名も使っていた。

板垣退助

1837〜1919:高知市出身。自由民権運動の先頭に立ち、国会開設を実現する。 政党政治の道を開いた、明治の政治家。晩年はかなり貧しい暮らしぶり。 暴漢に襲われた時の「板垣死すとも自由は死せず」は有名な台詞。幸い一命は取り留める。

中岡慎太郎

1838/4/13〜1867:安芸市出身。土佐勤王党。武市道場門下生。陸援隊隊長。 近江屋で坂本龍馬と共に暗殺されかけ、その数日後没。

岡田以藏

1838〜1865/5/11:高知市出身。土佐勤王党。武市道場門下生。通称:人斬り以蔵。数々の暗殺を実行。 山内容堂の勤王党弾圧により斬首。

中江兆民

1847〜1901:高知市出身。本名:篤介(とくすけ)。民権思想家・政治家。東洋のルソ−(フランス)。

牧野富太郎

1862〜1957:高岡郡佐川町出身。世界的な植物学者。小学校を2年で退学。独学で植物の研究をした。 95年の生涯で命名した新種や変種は2500種、集めた標本は約50万点にも及ぶ牧野日本植物図鑑。

浜口雄幸(おさぢ)

1870〜1931:高知市五台山出身。1929年、初の高知出身内閣総理大臣になる。 軍縮政策を断行した。右翼の一員に狙撃され、その傷がもとで翌年没した高潔な人物。

幸徳秋水

1871/9/23〜1911/01/24:中村市出身。思想家。中江兆民の書生。大逆事件で死刑




土佐の人物伝

参考にさせて頂いたHP
土佐人物事典
みねうち道




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